ランボルギーニビジネス▲現在、ランボルギーニのラインナップはV12エンジン搭載のフラッグシップであるアヴェンタドール(写真)、V10エンジンのウラカン、SUVのウルスの3車種となっている

外から眺めていると優雅に見えるスーパーカーの世界。しかし歴史を振り返ってみれば、ビジネスが失敗に終わったブランドは非常に多く、また現在成功を収めているブランドにも激しい浮き沈みの歴史がある。そこで、ランボルギーニの波瀾万丈なブランドストーリーを2回に分けてお届けする。
 

スーパーカービジネスで成功できる者は極めて少数

スーパーカーの世界は、あたかもブランドビジネスの分かりやすい成功例であるかのように見える。富裕顧客が競い合って購入を切望し、そのブランドへの強いロイヤリティを持っている者だけがそれを手にすることができるがごとく……。

しかし、スーパーカーの世界において成功者の数は限りなく少ない。多くの失敗作、不毛のプロジェクトといった大量の屍の上にそれらが成り立っていることも事実なのだ。

そして、現在の成功者も決して順調な道のりを歩んできたワケではない。例えば、2023年に60周年を迎えるランボルギーニの波瀾万丈な歴史の一部を取り上げてみよう。

現在はウルスの大ヒットなど、VWグループのリソースを最大限に活用しつつ、尖ったブランドイメージが広く受け入れられているランボルギーニだが、その歴史は大河ドラマ顔負けのドラマチックさだ。
 

ランボルギーニビジネス▲1990年代に発売されたLM002以来のSUVとして、2018年に登場したウルス。大方の予想どおりセールスは順調で、ランボルギーニの売り上げを支えている

創始者が離脱したことから迷走が始まる

とにかく、このブランドを立ち上げたフェルッチオ・ランボルギーニというオトコは、ブランディングの天才であった。1960年代には、イタリアの好景気を背景に多くの自動車メーカーが創業したが、残っているのはランボルギーニくらいだ(ランボルギーニの創業は1963年)。

フェルッチオは、第二次世界大戦後の混乱期にトラクター製造販売でひと山当てた人物であるが、あるときフェラーリやマセラティのようなスーパーカーを作ればもっと儲かると考えた。「エンツォ・フェラーリとケンカして、理想のスポーツカーを作る決心をした」という、誰もが飛びつきそうな会社創業のエピソードを餌に、革新的スーパーカーブランドというイメージ作りに成功した強者だ。

しかし、そんな彼でもヨーロッパの激しい労働争議には勝てなかった。金持ちの乗る車を作るメーカーも労働者の敵とみなされ、昨日までの仲間たちから徹底的に突き上げをくらった。

そんな現実に夢を感じなくなったフェルッチオは、ランボルギーニをあっさりと手放してしまったのだ。フェルッチオという熱い夢を持った天才を失ったブランドはそこから迷走を始める。

しかし、フェルッチオが見込んだエンジニア、パオロ・スタンツァーニはその思いを受け継ぎ、天才デザイナー、マルチェロ・ガンディーニと共に、カウンタックを完成させていた。今まで存在するどの車にも似ていないユニークなスタイリングと、常人では考えつかないエンジンレイアウトを採用したカウンタックが、前作ミウラに続いて大きな注目を集めたのは大きな救いだった。
 

ランボルギーニビジネス▲工科大学を卒業後、トラクターの製造販売で成功を収めたランボルギーニ創始者のフェルッチオ・ランボルギーニ
ランボルギーニビジネス▲トラクターの製造販売をしていたランボルギーニは、当時のフェラーリ車が自社のトラクターと同じパーツを使っているのに、その販売価格差が10倍以上だったことからスーパーカービジネスを始めたという逸話も残っている
ランボルギーニビジネス▲ランボルギーニが初めて開発した車が350GTV(写真)。1962年のトリノショーに出品されたが結局市販はされず、改良版の350GTが初の市販車として1964年に発売された

従業員たちの情熱が支えた不遇の時代

それから後も災難が降りかかる。それまで考えてもいないことが起こったのだ。そう、オイルショックである。

ガソリンが買えない。となると、リッターあたり2~3kmしか走らない大排気量スポーツカーは「買ってはいけない存在」となった。かくしてランボルギーニの経営は悪化するばかりで、何人かのオーナーが奮闘するも、1978年にはついに倒産の憂き目となる。

しかし、それでも裁判所の管理の下、ランボルギーニの火は消えることがなかった。ランボルギーニの従業員たちは地元の農家で昼間働きながらも、オーダーが入ると時間を見つけてはカウンタックを作り続けた。

それができた理由は、まずカウンタックがボディなどすべてを内製化していたことが大きい。当時、モデナ地区の自動車メーカーとしては異例ともいえる体制で車を生産していたおかげで、このような「自転車操業」が可能だったわけだ。さらに、カウンタックはいつまでも古さを感じさせないユニークさを持っていた点も、彼らを救うことになった。

そして最も重要なのは、従業員たちがランボルギーニを作り続けるということに強い情熱を持っていたことであった。だからどん底のような状態ながらも、ランボルギーニは車を作り続けられたのだ。当時、まともに販売できる車はカウンタックだけだったにもかかわらず、だ。

そんな厳しい状況にあったランボルギーニに、どんなバラ色の将来が描けたのだろうか? 一寸先は分からないもの。まもなく悪戦苦闘するランボルギーニに想像もつかなかった救世主が現われるのだった(後半に続く)。
 

ランボルギーニビジネス▲当時、モデナ地区の自動車メーカーとしては異例な生産体制を敷いていたおかげで「自転車操業」を可能にし、結果的にブランドを救うこととなった
ランボルギーニビジネス▲車好きなら誰もが憧れるスーパーカーのシンボル「カウンタック」。LP400、LP400S、LP500S、5000QV、25th ANNIVERSARYと進化を続け、なんと1990年まで生産された

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文/越湖信一、写真/越湖信一
越湖信一

自動車ジャーナリスト

越湖信一

新型コロナがまん延する前は、年間の大半をイタリアで過ごしていた自動車ジャーナリスト。モデナ、トリノの多くの自動車関係者と深いつながりを持つ。マセラティ・クラブ・オブ・ジャパンの代表を務め、現在は会長職に。著書に「フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング」「Maserati Complete Guide Ⅱ」などがある。